ジム・ブラウンの卒業後シラキューズ大学のアメリカン・フットボールチームの新戦力としてスカウトされたアーニー・デイビス。
ジム・ブラウンの背番号を受け継いだアーニーが大学アメリカン・フットボール界で各年に最も活躍した選手に与えられるハイズマン賞の受賞者候補生になるまでの活躍を描く。
ジム・ブラウンと言えば真っ先に思い浮かぶのが「あの夜、マイアミで」。
のちに俳優に転身したアメフト界のスター選手。
アーニーはそのジム・ブラウンの後輩にあたり、子供の頃には「42」でチャド兄が演じていたジャッキー・ブラウンに憧れていた。
子供の頃から足が早くて、そしてその早い足でフィールドを駆け抜け、人生を駆け抜けていく。
映画もアーニーの駆ける速さに合わせるかのように最初から最後まで疾走感を感じさせる展開で、アーニーと一緒に走り抜けていくような感覚で1960年前後のアメリカの時代感を感じることができる。
なんという時代なのか。
これを見ているとふと「グリーンブック」のドクター・シャーリーの心境に思いを馳せてしまったり。
自分の得意なことでの成功が決して自分のことだけでは済まされない。
常に同胞であるアフロ・アメリカンの気持ちを意識せざるを得ず、そしてそれは決して自分の中で蔑ろにできるものでもない。
あからさまな人種差別から、「そういう世の中だからしょうがない」という許容からくる人種差別、等しく扱われないことの残酷さがなかなか理解されないもどかしさ苦しさ。
絶対に引き下がれない戦いがある。
絶対に譲れない戦い。
アーニーはとても穏やかな性格の人なのだけれども、ここぞというところで引き下がらない強さがあって。
いつの段階からか彼は自分自身のためではなくアフロ・アメリカンのために引き下がらないとうスタンスになるのだけれども、決してそれをアーニー自身が吹聴するわけでもなく、ただ行動と選択で示す。
自分のことだけを考えて生きることはできない残酷さとでもいうのか。
せめて大学の4年間だけでもアメフトのことだけ考えて過ごせればいいのに、彼の肌の色がそれを許してくれない。
存在しないもののように扱われる。
存在を疎まれ、憎まれ、そこに存在することを決して許さないような。
コットンボールという全米一を決める試合の会場がテキサスで、案の定一緒のホテルに泊まれないと言われたり、MVPをとったにも関わらず、その授賞式を白人オンリーでしかやれないカントリー・クラブでやると言い出したり。
Don't shoot the messengerとはいうけれども、そんな理にまったく叶わないような相手への礼儀を完全に欠いた伝言を伝える時って一体どういう心境だったんだろう。
シラキューズ大学のアメフト部にはアーニーを含めて3人の黒人選手がいたわけだけれども、白人女性に恋心を抱くことなどはもちろん許されない。
チームの中でも差別は蔓延っていたのだけれども、チームの白人の面々もアーニーたちが試合の中だったり、その遠征先だったりで直面するあまりの理不尽ぶりを目の当たりにすることで徐々に気持ちを変えていく。
というか「これが本当に正しいことなのか?」と他人のフリ見て我が身をなおせ的変化だったという印象ではあったけれども、それでも最後にはアーニー側に立って発言してくれるようになったことがとても胸が熱くなる瞬間ではあった。
テキサスでの試合の最中に「黒人の味方をするなんてそれでもクリスチャンの白人か」と罵倒された時にシュラキーズ大学のチームの白人選手が「俺はユダヤ人だ」と言い返す場面があって、思わず吹き出して大笑いしまうぐらい「よしっ!」って胸のスク気分になってしまって。あんな嫌らしい差別をする人たちと同じようにはなりたくないっていう思いと言うか、「てめーらと一緒にすんな!」って言う気持ちのあの瞬間での最高の言い返しの言葉だって思って。
アーニーはかつてジム・ブラウンがコーチに頼まれて自分の元にやってきたように、自分も、コーチが大学に引っ張りたいと思っているとある選手の元にいく。
その選手の名前は後に殿堂入りを果たした名選手の一人となるフロイド・リトル。
彼を演じていたのがチャド兄だ。
もうこの笑顔を見た途端たまらなく切なくなってしまいました。
アーニー・デイビス本人の映像
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