安定のエディ・マーフィに、安定のディズニー童話。
エディ・マーフィという人は求められたことをきっちりとこなす。
エディ・マーフィは自分が”エディ・マーフィ”というプロダクトであることをしっかりと認識していて、自分とは明確に線引きしている。そして"エディ・マーフィ”というプロダクトに求められたことはきっちりとこなす。
おそらく自分の中の"クリエイティブ”を起動させてしまうと誰かの指示による同じことの繰り返しに耐えられなくなってしまうのではないか。たぶん、それを自分でもわかっていてあえてそうしているのではないかと思う。
インタビューなどを聴いているとこの人の観察眼と分析眼がとんでもなく卓越しているのがわかる。
言い方は悪いかもしれないけれど、良くも悪くも「白人が仕切って作る映画」と「黒人が仕切って作る映画」とどこかの時点ではっきりと区切ったのではないかという気がする。
だからといって手を抜いているとかそういうことではない。
いつも最善の”エディ・マーフィ”というプロダクトを全力で提供している。
スタンダップがあくまでこの人の基盤でスタンダップで培った技を駆使してキャラクターを演じている。
エディ・マーフィによるとそれは本物の俳優のアプローチ方法とは全く異なるものだそうだ。
それで思い出したのが、デンゼル先生のことで、デンゼル・ワシントンという人はシナリオに書かれていたり監督に懇願されたりしても、自分が納得しない限り絶対にそのセリフは口にしないそうで、監督のコメンタリーを聴いていても、その部分に泣かされたっぽい話が時々出てくる。そのデンゼル先生の傾向を一番愛してくれたのはトニー・スコット監督であったような気がする。
そしてデンゼル先生にも間違いなく「白人が仕切って作る映画」と「黒人が仕切って作る映画」の区別があって、前者に関しては「相手の理解度」もしくは「相手への信頼度、好感度」によってこだわりや厳しさを出す加減を調節しているような印象がなくもない。
面白いことにデンゼル・ワシントンとエディ・マーフィ、この2人は浮き沈みの激しいショービズ界で自分であることと普通であることを見事に保っている。
1980年代から今にかけて一挙に作品やインタビューを見たり読んだりしているわけだけれども、2人とも昔も今もコアが一貫していて、言うことにブレがない。
2人とも仕事で表に出している部分を完全にコントロールできているということだと思うけれども、そのせい不思議と共通するものを感じるというか。
おっと映画の話をしていませんでしたね。
普通にいいおとぎ話だったと思います。
普通に楽しく見られました。
パパンを演じている時のエディ・マーフィ大好きです。
もとよりディズニーアニメっぽい表情や動きが大得意のエディ・マーフィなので、この世界観にとってもよくあっていて、何も考えずにアハハーと笑いながら楽しめました。
何も考えずに気軽に楽しめる映画。
エディ・マーフィはそういう映画が好きだし必要だと思っているというようなことをインタビューでよく話していて、自分の現実が辛すぎる時は心配事のない夢の世界に現実逃避したいという気持ちとそういった時間の重要性を誰よりもよく知っている人の1人なんだろうなぁという気がします。
そういった部分で似てるなぁと感じたのがLL cool J。
LL cool Jも音楽は自分にとって現実逃避の手段と常々話していて、当時日常的にクラックでおかしくなっている人や銃で死んでいく人たちを目の当たりにしていたにに歌でまでそのことを歌いたくなかったと。
「I need love」も本当にLoveが必要だったという話を笑いながらポッドキャストでT.Iとアイス・キューブと話をしていたことがあって。LL cool Jの言ったことに2人も大いに賛同していたんですが、エディ・マーフィもそうなのかもしれないなぁって。
ちなみに、そのポットキャストで3人が盛り上がった話の中に「星の王子ニューヨークに行く」のこともありまして。
LL cool Jが初めてアフリカについていいイメージを描いた映画をみた気がして感動したと話していて、アイス・キューブやT.I.も同意していて、あとエディ・マーフィが冒頭に登場するマイケル・ジャクソンのMVについてもあげていて。彼らが感じた嬉しさと言うのは彼らでなければわからないことだよなぁと。デンゼル先生が「ブラックパンサー」を見てついにここまできたと涙がでたって話していた時も思ったことなんですが。
エディ・マーフィが「星の王子」のパート2を作るきっかけについて話していた時に、ある時ハロウィンでアキーム王子の仮装をしている人たちを見つけて自分たちの文化として根付いているんだなということに驚いたと言うようなことを話していたんですが、LL cool Jもハロウィンで自分が当時していたファッションの仮装をしている人たちがいることに対して、当時無我夢中でやってきたことが文化として確実に定着していることに驚き感動したという話をしていたんですね。
Hip-Hopがただのブームで、音楽やダンスの1ジャンルのように扱われる現状を許していてはいけないという思いが強めたという話もしていたのだけれども、これまたエディ・マーフィも同じなんだろうなと。
ルールも文化もむしり取られた自分たちアフロ・アメリカンから生まれた自分たちの文化。ホワイトの歴史にかき消されてしまわないようにセレブレートして後の世代に伝える。
自分たちがどれだけすごいことをやってのけたのかということを。
”歴史にかき消されない”という決意というのはサブカルチャーやカウンターカルチャーの場合、なかなかその概念が飲み込みにくかったのだけれども(最初は昔の流行り物がブームが終わって忘れられたりするのはよくあることだし....という風にしか考えられなかったので)、今年の2月のBlack History Monthで、Black Historyを子供に教えたくないから学校でもやらないでほしいと訴えた保護者の人たちがいたということで、じゃあ、俺たちも「White History」を拒んでいいってことかよーってツッコミが出て。
本当なら2月だけをBlack History Monthとして集中的にやるとかそういうことではなく普通に歴史の授業でどっちもというか包括した歴史を教えるようになって、それがノーマルになることが理想なんだろうけれどもとかそう思った時に、”かき消されない”って大変なことなんだなと思い至りまして。
かき消されてしまったら、その間の進展もゼロになってしまって、また何十年後かに「人種差別なんてとっくの昔に終わったと思ってたー」ということになるのかなとか。
1950年代から2021年の映画をざっと見ても、どうして「人種差別なんてとっくの昔に終わったと思ってたー」となるのか、そんなこと全然知らなかったとショックを受けることになるかといえば、もちろん自分の関心度合いもあるのかもしれないけれどもいつの間にか”かき消されている”せいもあるのかもしれないなぁと。
言うなれば、かつて山崩れや津波、大地震、洪水が起こったことがあって今後も起こる可能性がある土地であるにもかかわらず、そのことが忘れ去られ、対策も注意喚起もなしに売りに出され、知らないまま人が生活を初めてしまう。そして何か起こった時に....というのと同じことなのかもしれないなぁとか。
いつにもまして日本語が崩壊した文面ですね😅
頭の中をそのまま垂れ流すからこういうことになるんですが😅
デンゼル先生がエディ・マーフィについて語っているインタビューを見つけました!!!
「ワシントンポスト」に掲載された1989年のインタビューです。
Denzel Washington: Maybe I was dealt three aces. Maybe Eddie Murphy was dealt five. But you know, how does he play 'em? I take my hat off to him, because he's kept his head on straight, he doesn't booze, he doesn't do drugs, he hasn't folded under pressure. And there's a lot of pressure.
via SINCERELY, DENZEL WASHINGTON - The Washington Post
エディ・マーフィのことをきちんと理解しているデンゼル先生が大好きすぎる💗
当時のエディ・マーフィの出演映画の選択の仕方って、 CGなど映像の技術面に好奇心がくすぐられていたのかなともふと思ったり、こう言う新しい技術で何ができるんだろうと考えるのが楽しいので、子供向けと言うよりは、そういう面の方が強かったのかなという気もしてきました。その視点で考えれば「同じことの繰り返し」にはならないですし。
私の好み度: ⭐️⭐️⭐️/5
🍅: 14%