こんな一夜があったんだ。
1964年2月25日、カシアス・クレイがWBA・WBC統一世界ヘビー級王者のソニー・リストンを倒し世界チャンピオンになった夜、カシアス・クレイを祝うためマルコムX、サム・クック、ジム・ブラウンが集まる。
カシアス・クレイ、マルコムX、サム・クック、ジム・ブラウン。
この4人の中で私がこの映画で初めてその存在を知ったのがジム・ブラウンというアメフトの選手。この人は引退後は映画俳優に転身したということで、一体どんな映画に出ていたんだろうと検索してみたらスパイク・リー監督の「ラストゲーム(He Got Game)」でデンゼル先生と一緒に出演されていた。
"俺がやりたいことは映画やTVで黒人として役を演じることで、黒人の役割を演じることじゃない。例えば「汚れた七人(The Split)」で演じた役はどんな肌の色をしていようができる役だ。俺は作品の中で自分が黒人であることを前面に押し出して説教をするつもりはない。そこで訴えたところで、ほんの少しの同情や共感は得られるかもしれないが、大抵の人間はそこからすぐに逃げ出したがる。だから作品の中では訴えるんじゃなくて物語を語るんだ"
というようなことをインタビューで話していて、これまで疑問だったことにほんの少し手がかりを貰えた気がした。
疑問だったというのは「人種問わずで演じられるキャラクター」についてで、例えばデンゼル先生の映画をみている時に「これは元々白人の俳優さん想定で書かれた役なんだろうな」とか、「あー、多分これは白人のライターさんが書いているな」と感じたり、人種についてだけでなく性別に関しても女性や男性の描き方でそれぞれ「あー、これは多分女性のライターさんかな」とか「男性のライターさんが書いてるな」とか感じてしまう自分のその「感覚」のやりどころについてだ。
大体こんなことを思うのは大抵が自分が何か反発や抵抗感を感じた時で、作品や登場人物に完全シンパシー状態であればあまり気にならないというか、後でImdbでチェックして「ああどうりでなぁ!」と後付け的に納得するわけなのだけれど、これって結局私の中の「バイアス」が働いているわけだから、そう思ってしまうのはコントロールできないけれど、でもその後そう感じた感覚をどう処理すればいいのかというところで、自分の中でいまいちクリアになっていなくて。(←何をいってるのかよくわからないと思いますが、ええっと私もよくわかっていない感じで書いてます。すみません)
我に返ったところで映画の話に戻ります。
この会合の翌年1965年の2月にマルコムXは暗殺されるのだから、なんというかいちいち切ない。
サム・クックに至ってはこの会合のあった年1964年の12月に殺害されるわけで、1964年の2月25日の夜にあったこの4人の会合というのが、奇跡のように貴重であり、なんとも悲痛な気持ちにさせられる。
冒頭で「君は私たちの誇りだよ。力になれることがあればなんでも言ってくれ」とジム・ブラウンに言った白人がその舌の根も乾かぬうちに、重たい家具を動かすのを手伝おうかと申し出たジム・ブラウンに対して「うちは黒人を家の中に入れないんだ」とニッコリと何一つ悪びれなくいうシーンがあり、それがもう本当にショッキングだった。
どういう神経というか思考回路でそういうことが言えるのか。
悪気なく当たり前のように言ってのけたところが、恐ろしかった。
その歪さに何も気がついていないっていうところが。
圧巻と感じたのはマルコムがサム・クックのボストン公演について話すシーンで、マイクの電源を切られたサム・クックがアカペラで歌い出すところが映像で映るのだけれど、それがとても魂が震える感じのパワフルさで。
ジム・ブラウンがマルコムと2人きりになった時、同じ黒人の中でも肌の明るさで、より肌の暗い方が蔑視されるという話をしていて、マルコムが熱心に活動を続けるのは「黒人に証明したいからなのか?」と聞くところも印象的だった。
そうそう!
ランス・レディックがマルコムXの護衛として登場していたんですよ!
やっぱりカッコいい。
立っているだけで気品と威厳オーラがむんむんで。
マルコムが何者かに見張られているのを頻繁に気にするんですが、その目線の先に駐車場でたむろしている怪しげの白人の男たちいたりするんですが、こっそりシャロン(←映画違い)が始末しに行くんじゃないかと脳内で別ストーリーが繰り広がりまくっておりました。
基本モーテルの狭い部屋で4人が会話しているだけなのとセリフの言い回しの感じから舞台の映画化なのかなと思ったりもしたのですがやっぱりそうでしたー。
・ネトフリのマルコムXとサム・クックのドキュメンタリーをみた時の感想
私の好み度: ⭐️⭐️⭐️⭐️/5
🍅: 98%