これはまた難しい...。
どういう話か前知識をいれずにみたのですが、実はこの映画の脚本はスティーヴン・コンラッドなんですね。
スティーヴン・コンラッドはアマプラオリジナルドラマ「パトリオット ~特命諜報員ジョン・タヴナー~」の脚本を書いた人で、心を病みすぎた殺し屋がそのストレスを全部歌にしてうたってしまうという政府が使う殺し屋としては致命的すぎるトラウマを発症しているキャラクターが主人公で、通りすがりのセラピー犬にすら心配されて自主的に見守られてしまうとか、よくもまぁこんな面白い設定を思いついたもんだと、このドラマをみたあと、立て続けにこの人の作品をみていた時期があって。
以下の作品がそうなんですが...
どの作品も「子供の時に思い描いていたような自分にはなれなかったけれども...」というところからの立ち上がりを滑稽さと物哀しさをうまく笑いでコーティングしつつ、まとめあげるのが得意という印象をもっていて、どの作品も結構好きなんですね。
で、今回もこの人らしい纏めあげられ方をしていて、たぶんBLM学習前にみていれば普通に好きだったと思うんですよ。ウィル・スミス親子がまたすごく気持ちを惹きつけられずにはいられない健気ぶりで。
ウィル・スミス演じるクリス・ガードナーはもともと頭脳明晰ということもあって成功というか破産、ホームレスという状況まで落ち込みながら、証券会社に入社することがかない、その後は独立して今は実業家として成功しているわけなんですが。
そう、これ実話なんですよね。
やんわりと人種差別らしきことも表現されているんですが、例えばインターンの中で一人だけ雑用(コーヒーをいれて欲しいとか車を移動させて欲しいとか)を頼まれたりするんですが、コーヒー云々は女性の方ならまぁ経験する話で、この映画だけみてBLMムーブメントをみると、自分たちだって似たような苦労をしているのに、自分たちだって耐えてがんばっているのにどうして人種差別って文句をいうんだろう??となりやすいんじゃないかなと。
実のところ、この映画をみていて、クリスが売り物のマシンを盗んだ相手を追いかけたりする場面や駐車違反で警官に呼び止められたり、罰金を回収にきた警官が家に押しかけてきた場面で、もう私の方が心臓が縮みあがったわけですよ。
これまでのBLMの感覚でいくと、不当逮捕されたり殴られたり、そのまま刑務所おくりになって5歳の子供がひとりぼっちになってしまうんじゃないかとか。そういう怖さを感じちゃったわけなんですが、この映画ではスルッと。
会社にも留置所に入れられていたために着替える暇がなくスーツ姿でなく面接にいくわけですが、これはもう人種差別関係なしに「無理ちゃうんー」と青ざめるわけですが、そこも彼は運良くすり抜けられるという。
白人の投資家の人たちもみんなオープンマインドで、彼が黒人であるということは映画の中では意識しなくてすむ感じで、見ながら途中で、「もしかして白人の方の成功談にウィル・スミスをキャスティングしたんだろうか」思いかけたぐらいなんですが、でも実際のクリス・ガードナー氏も黒人の方なので、見終わってからしばし混乱したわけですよ。
混乱というか、もしかしてBLM側の偏った意見だけを自分は取り込みすぎていたのかな?とか。
人種差別も一般的には思うほどアメリカ社会では肌に感じる機会は少ないってことなのかな??とか。
で、ふと、「遠い夜明け」でデンゼル・ワシントンが演じていたスティーブ・ビコが「これが多くの黒人を混乱させる」と言っていたことになるのかなと。
白人の社会のルールに従えば受け入れられる。
受け入れられるといっても”白人をサポートする立場”として、その貢献度で優遇されていく。
で、こうして白人社会に受け入れられた人たちは、そうならない人たちのことを”ルールに従わない”、”努力をしないから”と思うし、人種差別によって機会が均等に与えられないことを良しとしない白人の人たちだっていっぱいいて、均等に機会が与えられるよう運動したり、活動したりする。
でも、そこに集中しすぎるとアメリカに住む黒人の人たちが日常的に命のリスクを感じなくてはいけないような差別が存在することを見失いがちになる。
肌の色が理由で殺されたり、約束されているはずの社会保障が受けられなかったり、インフラ整備や社会福祉があとまわしにされる。
そのことを公に訴えると反体制的のレッテルをはられる。
まだ勉強中の身なのでこう書きながら、ちょっと的確に言えてないなというもやもや感が今すんごいんですが。
差別のことなど文句をいっていてもしょうがないから自分にできる限りのことをしようという思いも、それはそれで一理あって、必要なことだし、大事なことだし。
デンゼル先生も「まずは家庭が大事」という話をして、まるでアメリカに人種差別は存在しないという発言をしているかのような誤解をされるんですが、そうではなくて、差別は歴然と存在していて、それをどうにかするための戦いは続けなければならないけれども、一方でそれであきらめてしまって人生を投げたり捨て鉢になってはいけないという。で、やっぱりそれはそれぞれの家庭で子供達をちゃんと育てていくしかないっていうことが基本だとデンゼル先生は言っているわけで。ホワイトウォッシュされることなく、希望とモラルを失うことなくしっかり生きていけるよう守り育てるための基本は家庭にある、と。そこをよく誤解されてというか、「差別なんか存在しない」と言いたい人達に都合のいいように発言を引用されるんですが。
でも、この映画の中でもはっきりと映し出されていたことがあって、今夜の寝床を求めて大勢のホームレスの人たちが教会の前で列をなしている、その傍らを高級オープン・カーで走り抜けていくみたいな図。
自分の才覚で成功できる社会をアンチしたいわけでは全然ないけれど、さりとて社会の何かがうまく機能していないから起こっている、個人の努力だけではどうしようもない何か問題があることは表していたと思うので。
と、書きつつ落としどころ迷子になっておりますが....。
うーん。
どう考えていいかわからないあたりで、まだまだ勉強不足だ自分。
で、この後数日ぼややーんと考えてみたのでリトライ。
クリス・ガードナー氏は独立して実業家として成功して、ブラック・コミュニティにお金を還元することができている。
合法的な仕事で起業できてコミュニティにお金を還元できるところが重要で。
クリス・ガードナー氏は一旦破産してるし5歳の子供を抱えてホームレスの状態で。そこでアルコールや薬に逃げず”研修”に取り組みチャンスをつかんだ。
人種差別が歴然と残る社会で、そこででも生きていかなければならないし、成功したいと望み、努力することを後ろめたく感じる必要もない。
ただ成功したときに、そこが”人種差別が歴然と残る社会”ということを忘れてしまってはいけないというか、負の連鎖から抜け出せない人たちに対して差別意識をもってしまっては”人種差別が歴然と残る社会”は延々と変わらないということになってしまう。
”差別”にもいろんな種類があって、自分の中にある差別意識というのが人種によるものなのか、教育程度からくるものなのか、所得なのか、職業なのか、環境なのか、優越感からくるものなのか劣等感からくるものなのか、妬みからくるものなのか、怒りからくるものなのか、恐怖感からくるものなのか、それらのコンボから生まれるものなのか、しっかり自己分析していかないといけないなと思って。
ものごとを理解するときにカテゴライズしていくことは便利な手法だけれども、そこで拾いきれないものというか境界線の曖昧さを忘れてはいけないなとか。
この映画をみていて思い出したのが「ホワイト・ボイス」で。
白人の社会のルールにのっとって受け入れてもらっても、黒人である限りどこかの一線でいれてもらえない...というのは”黒人”を”学歴”や”派閥”に置き換えればよくきく話で。
でも学歴や派閥は生まれながらのことではないし。
学歴が理由で学歴ヘイターからリンチされたり殺されたりという事件は起こっていない....と思うんですが...。
肌の色が違うというだけでリンチされたり殺されたりして、それを間違ったことだと思わない人達がいる。
つまり、ヒトラーがいばっていた時代、ユダヤ人の人が収容所送りにされても、それを間違ったことと思わない人達がいる、または「知らなかった」という人達がいたのと同じことで。
一番忘れそうになるけれども忘れてはいけないのは”アメリカ在住の黒人の方たちが日常的に命の危険を感じているという感覚”かなと。
うーん、ムズカシイ。
私の好み度: ⭐️⭐️⭐️/5
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