1989年の映画なのにとっても今な内容。
約30年前にリリースされた映画。
偏見あるあるネタから、無意識下に刷り込まれている偏見までをあぶり出してみせつつ、正解や結論は提示しない。
わかりやすいものとわかりにくいものが巧妙に混ざり合っていて、それを見ながら、そこには共感できると思ったり、反発を覚えたり。
そういった自分の心の動きを手掛かりに自分の中にある偏見や思い込みを探る手助けをしてくれる作品なのかもしれないなぁとも感じた。
この世界に生まれ落ちた時からその社会の価値観が自分の中に取り込まれていくのは当然のことで、誰の中にも偏見や先入観はある。ないと思っていてもある。
自分の中にそれを見つけるのは不愉快だし、怖いことではあるけれども、それと向き合わないことには、いつまでたっても自分は差別する側であることから逃れられない。それが嫌なら落ち込もうがなんだろうが向き合うしかない。
「正しいことをしろ」という、この「正しいこと」にも完全な正解はないのだと思う。
どちらの立場に身をおくかで「正しいこと」の内容は変わってくるだろう。
イタリア移民のサルはピザ店を営み、アフリカン・アメリカンのムーキーはそこでアルバイトをしている。
サルの二人の息子のうち、長男は白人至上主義に傾倒気味。
弟はムーキーと仲がいい。
例えばサルのピザ店の壁にはアメリカで成功したイタリア系移民の有名人の写真がたくさん貼ってある。
しかし、サルの店の客のほとんどがブラック・アメリカンだ。
ブラック・アメリカンの客のおかげで儲けているのだからブラック・アメリカンの偉人の写真も壁にかけるべきだとサルは詰め寄られる。
このくだりをみながら、サルはイタリア系移民なのだから自分の店にイタリア系の偉人や成功者の写真を飾りたい気持ちはわかると思ったのだが、かたくなにブラック・アメリカンの偉人や成功者の写真を拒み続けるサルをみると、それで揉めるぐらいなら貼ったらいいのにと思ったり。
しかし、サルにはサルのこだわりがあるようで、まぁ確かに阪神ファンが主人のカフェで壁には阪神の選手の写真がはってあり、そこに巨人ファンの客がきて巨人の選手の写真も貼るべきだと主張したとしたら、まちがいなく大げんかになるだろう。
でも、お客のほとんどが巨人ファンだったとしたらどうするかな。巨人ファンのおかげで経営がまわっているのだとすれば?
それでも”魂は売り渡さないぜ”とかって阪神タイガースグッズしかおかなかったりしそうなものだけれど。
おなじ野球好きという広い枠で考えれば、一つのチームにいれあげる気持ちは熱狂ファンでわればわかるところだと思うので、巨人ファンのお客さんも店主が阪神タイガースグッズや阪神選手の写真にこだわる気持ちも理解して尊重するかな?どうしてもいやだったら、その店に行かなければいいだけの話だし。
どうだろう。
お客さんが自分が阪神ファンであることを尊重する気持ちを持ってくれるなら、自然にお客さんたちが巨人を愛する気持ちも尊重して、ささやかながらでも、例えば巨人がかった時とか優勝したときとかには何かしてあげたいかなとか思うかもしれない...(優勝決定戦が阪神と巨人でない限りは...)。
もとい、
ピザ屋の壁の写真問題である。
で、この場合はどうしたらいいのかなと悩んでいるうちに映画の中では諍いがどんどんエスカレートしていってしまうのだが。
イタリアは日本と同じく第二次世界大戦中はドイツと同盟を組んでいたわけだから、敵として戦っていたという過去があり、それでいながら常に肩を並べて同じサイドで戦ってきたブラック・アメリカンよりも境遇がいいのは納得がいかない!という話をきけば、なるほど根底にそういうイライラがあったのかと思うものの、だからといって、サルをその全ての代表であるかのように責めるのもなんだか納得できない。
しかもサルはサルなりに街を深く愛している。
人種の違いゆえにブラック・アメリカンに受け入れられないのであればサルも偏見の目でみられているわけだから、人種差別を受けていることになりはしないか。それともやはり白人という圧倒的マジョリティーに属する身であるからにはそこで文句をいうのはおかど違いになる???
どうなんだろう???
ムーキーはサルの店の破壊行動に加わるが、翌日給料を受け取り、変わらずサルの店で働くつもりだと告げ、サルもそれを受け入れる。
騒ぎが起こった中、警察に殺されたのはブラック・アメリカンの若者だった。
自分のピザを食べて育ったこの街の若者たちは自分にとって息子のようなものといっていたサルにとってもショックだったはずだ。
なぜこんな悲劇が起こるのか。
そもそも憎しみあう必要のない者同士がなぜ歪みあってしまうのか。
自分のこの怒りや憎しみはどこからくるのか、そして相手の怒りや憎しみはどこからくるのか。
何か取り返しのつかないことが起こる前に、一人一人が考え抜く必要があるような気がする。
自分の根拠、相手の根拠、そこを見定め、どちらにも納得がいくような落としどころをさがす。
手間のかかることだし、そこまで感情をコントロールすることが可能なのかどうかわからないが、それでも諦めてしまっては何も変わらないし、理不尽な悲劇は繰り返され続けるというのはあまりにも不毛な気がする。
難しいことだけれども、簡単なことではないけれども。真摯に向き合わないかぎり、自分の中のレイシストは永遠に消えることはなく、コロナウィルスのように知らぬ間に他人に感染させてしまう危険性を常にもっている。
たぶんそういうことなのだろう。
たぶん...
....どうかな?
うーん、やっぱり難しい。
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