too soon ???? とおろおろしながらも笑い転げてしまう。
差別問題が複雑すぎてもはや言っていいのかわるいのか考えすぎて何が何だかわからなくなってきて硬直化しそうな気持ちにズドーンと風穴!
いや、もう本当にこれほどオロオロしながら笑い転げた作品はない。
というか、部屋で一人でネトフリ見てるだけなのだから世間体を気にすることもないのだから、オロオロする必要はないのだけれども、でもそのくらいスゴいというかキワどいところをもれなくつかれすぎて結局笑い転げてしまった。
自分にとってタイムリーだっただけなのかもしれないけれど、この映画のおかげでもやもや考えすぎてしまっていたことすべてリセットされた気分。
これもネトフリに勧められての視聴だったんだけど、ネトフリ怖いわー。
なんでそんなに的確に勧めてくるのさ。
まぁそれはともかく、いやもうありとあらゆる汚いスラング英語をこれだけ詰め込みつつ、なおかつなんかすごい画期的なものをみたような気がするぞという気にさせられるのだから、やはりお笑いってすごいと思う。
さりとて半年前ぐらいに私がこれを見ていたとして、こんだけ笑い転げることができたかどうかというと悩ましい。
お笑いが難しいというのは、ある程度共通認識を持っていないと成立しないというところにあるのかな。
もちろん万国共通の笑いもあるのだろうけれど、相手の事情というか土壌を知らないと笑えないネタというのもあって、加えてギリギリの瀬戸際をついてくるような笑いは迂闊に踏み込めない感じがするというか。
私が笑いながらも「これってここで笑っちゃっていいのかな???」と不安になったというのは、まだまだヒップホップ・カルチャーやアフリカン・アメリカンの人たちの歴史を学びたての知識しかないからなんだろうと思う。
そういえばどなたかのレビューでヒップホップとラップの違いがわからないと書かれているのを読み、頭の中で踊れるビートとメロディをつくるのがDJ、しゃべりが苦手なDJのために場つなぎ語りをするようになったのがMC、DJがかけるリズムに乗せてMCが語りだしたのがラップ、これらをひっくるめてヒップホップだよなと「Hip Hop Evolution」で学んだことのおさらいをしてしまった。
ちなみにマイルス・ディヴィスのドキュメンタリーをみたのは「Hip Hop Evolution」などのドキュメンタリーをみたあとだったのだけれど、驚くほど一直線上にあるということがわかった。どれがブラック・ミュージックかと悩む必要はないのではないかということと、ヒップホップが生み出してきたリズムやスタイルがどれほど他のの音楽に影響を与えていったのかも「Hip Hop Evolution」に教わった。
まるで「Hip Hop Evolution」の回し者のようになっているが、このドキュメンタリーのおかげでガツンと自分のものの見方が変わってしまったのだからしょうがない。まだ自分の中に吸収・消化しきれていないので今現在は入信したての信者みたいになってしまっていて我ながら気持ち悪い。
私はハマりやすいので洗脳もされやすいのだ!(←威張ることではない)
ものすごーく騙されやすいとも思う。
もうちょっと時間がたって、このあたりの文面見返したら、「どんだけ洗脳されてんねん」と自己嫌悪に陥りそうだが、まぁ、それも人生だよね!(←?)
まぁ、そのうち落ち着くでしょう。
それはさておき、映画の話に戻る。
ストーリーはこんな感じ。
主人公は白人制服警官のジェイムズ・コフィー。コフィーは現在ヴェネッサ・マニングという黒人のシングルマザーと付き合いはじめている。ヴェネッサには12歳の息子カリームがいるが、カリームはギャングスタ・ラップに憧れるラッパーで彼の白人のクラスメイトであり親友のDJといつかデビューすることを夢見ている。ところがカリームは母親と白人の制服警官が付き合っているのを偶然目撃してしまい、ラッパーとしての汚れとコフィーの暗殺を依頼すべく地元のギャングスタに会いに行く。そこで偶然彼らが制服警官を拷問し、殺害するのを目撃してしまう。
反発しあっていたというか、もう反発しかないコフィーとカリームが麻薬の売人たちから命からがら逃げ回りながら擬似親子的絆を築き上げ、麻薬組織と汚職警官と戦う。
いかにもありそうなギャングスタ系映画設定がことごとくお笑いに変換されていく。 この12歳のカリームの口の減らなさぶりが凄まじい。
TVドラマでは到底でてこないスラングの応酬なのだか、ボケとツッコミがききまくっていて......、ごめん、どうやって説明したらいいのかわかんないや。
非常に下品だし、見た目もかなり汚いし、グロかったりもして、なんというかこれを面白いと思ってしまった自分を心配したくなる仕上がりではあるのだけれども、でも、たぶんなんだけど、これ、かなりの職人芸なような気がして。
見終わって、「やべーよ。なんか面白すぎた...ような...いやでも、これ大丈夫なんか???」(←小心者)な感じで、Imdbへ。
タラジ・P・ヘンソンさんが出ているんだから、アフリカン・アメリカンの人たちに対して失礼になるような作品ではない...はず.....。
そう。タラジ・P・ヘンソンさんがいるから、大丈夫なはずとそこだけを心のよりどころにして、自分に爆笑することを許していたところもある。
コフィーを演じていたのは「ハング・オーバー」(←見たことないけれどタイトルはよく知っている映画)に出演しているエド・ヘルムズ。どうやらこの人の制作会社の作品みたいだ。
...わからん。
しょうがないから関連インタビューを検索してみた。
タラジ・P・ヘンソンさんのインタビューを見つけた。 この作品のプロダクションがスタートした日がジョン・シングルトン監督の訃報をきいた日だったらしい。
その時、ずっとそばにいてささえてくれたのがエド・ヘルムズ。シングルトン監督の想いに応えて何かしなくっちゃいけないと思いながら臨んだプロダクションだったということで。
「Boyz n the Hood」が一つのステレオタイプを作ってしまうのではないかというリスクをシングルトン監督が懸念していたという話を書いていた記事をどこかで読んだ記憶がある。
ギャングスタに憧れさせるために作った映画ではなく、そうならないで普通に生きていけるよう作った映画。 暴力に走らないでいることの強さ。 その方がギャングスタよりもよっぽど強さを必要とすることなのだと。
もしかしたらシングルトン監督のそんな気持ちを代弁しようとしていたのかもしれない。 最後には「タフでいる必要なんてないんだ」と、コフィーはなんだかもうグダグダすぎる状態でクールとは程遠い状態だったにも関わらず、とてつもなくカッコイイというとんでもないことを成立させてしまったキャラクターで。
こう書きながらもまだこの相当な勢いで下劣感満載だったこの作品を好きだと言い切ってしまうことを躊躇してしまう自分がいるものの...いやでも、本当に私史上最初から最後まで死ぬほど笑った映画だったので。
認めることにします。 コンチクショー!
いやそれにしても、英語は映画ではなくドラマで勉強する方がいいなと思っちゃった。だって、無意識のうちに悪い言葉をいっぱい覚えてしまう。(そして無意識に口からこぼれ落ちてしまう...恐ろしさ)
私の好み度: ⭐️⭐️⭐️⭐️/5
🍅: 23%