ジョン・シングルトン監督作品、タイリース・ギブソン初主演映画
20歳になるジョディは実家で母親のジョアンナと暮らしている。ジョディはジョアンナが16歳の時に産んだ子供だ。 ジョディには二人のガールフレンドがいて、一人はイエヴェットで彼女との間に息子ができている。もう一人はピーナッツという17歳の女の子で彼女との間にも娘がいる。
ジョディは定職につかず、仲間のスゥィートピとつるんでいる。しかし、ジョアンナがメルヴィンと付き合うようになり、メルヴィンが家にいる時間が増えて行くほどにジョディは居心地が悪くなっていく。
舞台は「Boyz n the Hood 」と同じくサウス・ロサンゼルス(旧サウス・セントラル)。主人公のジョディは穏やかな住宅街に庭でガーデニングをしたりお金には不自由のない暮らしぶり。前回と違って基本的には銃や暴力とも縁遠そうな日常の中でジョディの話が進んで行く。
この映画はかなり難しい。彼らの文脈を全く知らないでみるとジョディに対して「ええから早よ定職について、結婚するなり生活費を払うなりしろー」で終わってしまいそうになるからだ。
たまたまネトフリで「Hip-Hop Evolution」という現在シーズン4まで配信されているドキュメンタリーを見た後にこの映画をみたおかげで、ほんの少しだけ彼らの文脈に馴染んだというか、といっても「やりなおし英語」の勉強過程でいうと「わー、英語できるようになりたいー!」と思って何したらいいかわからず、とりあえずNHKでやってる基礎英語とかをつまむようになってなんとか3ヶ月は続けてこられたなぁというぐらいの習得レベルな感じだが(←分かった気になってまだ全然わかってないことに気がつけないレベルの習得度)、それでもあのドキュメンタリーを見ないでこの映画をみていたら、十中八九「よぉ.....わからん」で終わっていたと思う。とはいえ、「たぶん....こういうことなんだろうなぁ...」レベルでしかわからなかったのだが。
だからこうして感想文を書くのが難しい。
漠然とはわかるのだが言語化するほどに自分の中に消化しきれていないというのが正直なところだ。
なんとなく感じたことは、彼らの中に世代ごとに積み重ねられている”怒り”と”恐怖心”というものがあり、それに捕らわれてなかなか次の一歩に進めなくなるという状態だ。しかし、そこから抜け出さなくては次の段階には進めない。
映画は「人種差別のせいでアメリカの黒人の男達は自分達のことを赤ん坊と思い込んでいる...」というとある学説を説明しながらジュディが子宮の中にいる映像を写して説明する。このショットにまず面食らう。
- There's this psychiatrist... ...a lady named Dr. Frances Cress Welsing. She has a theory about the black man in America. She says that because of the system of racism......the black man has been made to think of himself as a baby.....a not yet fully formed being who has not realised his full potential. To support her claim, she offers the following: First......what does a black man call his woman? Momma. Second, what does a black man call his closest acquaintances? His boys. And finally, what does a black man call his place of residence? The crib.
ジョディの父親世代はいわゆる暴力で荒れ狂っていた頃のサウス・セントラルをかいくぐっていきてきた世代だ。
暴力と麻薬と貧困と隣り合わせでありながらどうにか生き延びた。
彼らは次の世代には自分たちと同じ思いはさせたくないと思いつつも、これまで抑圧してきた感情が思いがけない形で暴発してしまい、それが時に取り返しのつかない悲劇につながってしまうこともある。
その一方で、昔から何も変わらない非情な現実もある。
自分の中の”怒り”や”恐怖”とおりあってどうにか普通の日常を生きていこうとしても、ちょっとしたはずみで反射的に暴力衝動に流されてしまうようなところがあり、そのことで当人も苦しんでいる。
それは街全体にもいえることで一見平和で、過去のことは水に流して、それぞれの幸せに向かって普通の生活を営んでいる。昔とは違う。普通に生きていこうとするのに過去の悪夢が不意をついておそってくるような。
この感覚は経験したものでしか理解することも表現することもできないのだろうと思うので、こういう映画ができるというのは彼らにとってとても大事なのだと思う。
この感情をシェアできる。白人の若者の苦悩を描いた青春ものではなかなか彼らの心に届くことはできないのだろう。
この作品はもともとトゥパック・シャクールが主演するはずだったようだ。
ところがあの襲撃事件が起こってしまった(←「Hip-Hop Evolution」学習効果!)。
ジョン・シングルトン監督はトゥパック・シャクールにラッパーをやめて俳優に専念しろといったことがあるそうだ。
もっとも相手にもされなかったそうだが。しかし、あの時もっと自分がきちんと説得できていれば死なせずにすんだのに....という後悔の念のようなもがやはり監督にはあるのだろう。
俳優業でも人生をかえるような成功をつかめるという土台を一刻も早くつくりたい。これ以上若者たちがストリートで死なずにすむようにという焦燥もあったのではないかと思う。
この役をタイリースにオファーした時、タイリースは一旦承諾したもののやっぱりやめると連絡してきたらしい。監督はタイリースの家に押しかけ説得したそうだ。タイリースを絶対にトゥパックの二の舞にはさせないという強い思いがあったのだと思う。 才能ある若者をどんどん登用できるよう、そのためにも自分はもっと規模の大きい映画を撮れるような監督にならないといけない。そう思ったのではないかと。それが「ワイルド・スピード X2」の監督を引き受けた理由の一つなのではないかと。こういった大衆娯楽映画も撮れることを示したかったのかなと。
タイリース演じるジョディの自室の壁にはトゥパックの顔が大きく描かれている。ジョディの部屋が映る時、常にトゥパックが問いかけるような目線でこちらをみつめてくる。
この作品に関するインタビューなど詳しくチェックしていないのであくまでも推測なのだが、ジョン・シングルトン監督はトゥパックの「Dear Mama」や「Keep Ya Head Up」にインスパイアされて、「Boyz n the Hood」が父性やアフリカン・アメリカンの若い男の人たちの苦悩や心情によりそって作ったのに対し「Baby Boy」は母性や女性によりそった目線で描こうという当初の試みだったのではないかと思う。
しかし、トゥパックの死によって、「Boyz n the Hood」のテーマにゆり戻った部分もあったような感じだったのかなとか。
「Hip-Hop Evolution」をみたあとで、トゥパックという人のことがもう少し知りたくて伝記映画「オール・アイズ・オン・ミー」を見かけたんだけど、これが本当にひどい!何がひどいって時代感が全然取り込めていないので、ドキュメンタリーで受けた印象を消したくなくて、5分ぐらいで映画をみるのをやめてしまった。
この映画が格別に下手くそだっただけなのかもしれないけれど、実話を映画にしたとき時代の空気感を画面に取り込むのってこんなに難しいことなのかと。
「Hip-Hop Evolution」で感じたことはトゥパックの女性を気遣える優しい感受性とブラックパンサー党の両親に育てられ刷り込まれる思想と、なんというか過去の呪縛から解き放たれることと、ルーツや歴史を忘れないでいる大切さのバランスの難しさなんてことも考えさせられてしまう存在だなぁということ。
虐げられてきた歴史はわかっているけれど、シェイクスピアや白人の音楽や文化が好きな自分もいる。そもそも白人/黒人だけでは簡単にわけられないものなのに、それっぽくあらねばならないというコモンセンスの圧力。ステロタイプはなにも白人側から押し付けられているだけではなく自分たちも自分たちをステロタイプにはめている。そういった過去の呪縛から解放されて自分らしく生きて欲しいというようなジョン・シングルトン監督の思いも見え隠れしていたような....気もしなくはなく。
ちなみに「Hip-Hop Evolution」はヒップホップの誕生から今に至るまでの流れをざっくりと知るのにとっても最適なドキュメンタリー。
みんな、喋りがうまくて面白いので結構重たい話でも楽しくのみこめてしまう。これを見るともう「麻薬を売ってそのお金で機材を買ってレコード作って...」なんて過去も驚かなくなる。というかあの凄まじく破壊されたブルックリンの街並みをみれば納得せざるを得ない。
ヒップホップ自体も暴力に走らないため踊ってエネルギーを発散させようぜーというところから生まれた。(←知らなかった!)
楽器を買うお金がないからレコードからかっこいいメロディやビートを抜き出してそこを伸ばしたり、ミックスしたりして楽しく踊れるようにする、それが進化していったのがヒップホップだ。
お金がない中で必死に工夫していたわけなのねとか、聞けばちゃんと理にかなっているというか、全ては必要から生まれてたものだったとわかったのも新鮮だったし、自分が随分とヒップホップについて間違ったイメージしかもっていなかったのだというのを実感しまくった。
ビートを作ってみんなが楽しく踊れるように音楽を流す人たちがDJ。(←DJありきだったんだというのもここではじめて知った)
DJの人たちがみんなしゃべりがうまいというわけではなく、むしろエンジニア的な職人気質な人が多いのでむしろ口下手。
それを補うためにMCの人たちがみんなを盛り上げるトークをする。
それが次第にラップになっていたというのも面白い。
NYで停電が起きていた時、みんなお祭り気分でお店にモノを盗みに入って、本当なら高くて手が出ないターンテーブルも停電のおかげでみんなが当たり前のように持っていたとあっけらかんと語られた日には笑うしかない。被害にあった店の人たちにとっては笑い事ではすまさせないだろうが、それでも報道で伝えられたイメージと実際の他愛なさの差のようなものも見えてきてすごく興味ぶかかった。
このドキュメンタリーは必要に従って生まれて進化していく様子をすごくわかりやすく説明してあって、ヒップホップの知識なんぞかけらもなかった私でもざっくりとした流れは頭の中にはいった感じだ。
地方によって自分たちの境遇にあわせたビートやラップが生まれたりするのも面白く、見ていくほどに普段なにげなくドラマや映画などで聞き流していた音楽が、「ああ、これはあれだ!!!」とピンとくるようになり、「このリズム....トラップだ!」 ってなところまで言えるようになり、今めちゃくちゃヒップホップに興味が出ている。
調子にのって「The Defiant Ones」というDr.Dreとジミー・アイヴォンを主軸としたドキュメンタリー番組もみた。これがまたいい具合に「Hip-Hop Evolution」の復習もになった。エミネムがどう特別なのかもわかったし、彼が認められるまでにぶちあたる偏見の壁にDr.Dreが「なんちゅー人種差別!」と、黒人からの白人に対する差別感に気がつくところが面白かったというか印象的で、私も一緒になって「ああ、そうなるのか」と腑に落ちたというか。
Dr.Dreとジミー・アイヴォンの不思議な友情関係みたいなものも面白くて、これをみた後で「ワイルド・スピード」がらみの話を見直すと、見えてなかったものが視界にはいってくるようになった感覚があって、面白いと感じた。
今は「Rap Ture」というドキュメンタリーを攻略中。
これまた色々と目からウロコが落ちすぎて、どんだけ自分はものを知らないんだと愕然としつつ。結構キツイ話が多いのだけれど、でもなんかいろいろパワーと勇気をもらえる感じ。
私の好み度: ⭐️⭐️⭐️⭐️/5
🍅:71%