コロナウイルスのおかげで「ワイルド・スピード」シリーズ9作目、「ワイルド・スピード /ジェット・ブレイク (F9 The Fast Saga)」の公開が今年の5月から来年の4月に延期されることが早々に決定した。
コロナウィルスめ💢。
まぁ致し方がない。この映画はどんなことがあっても記録的な興行成績を叩き出さなければならない大切な使命を背負っている...たぶん。
コロナウイルスで動員が減るぐらいなら公開日をずらす。
収束の見込みが立たないなら、もういっそ1年ずらしてしまおうとなるのも無理からぬことだ。
ところで、ここのところ連日のようにネトフリによるニール・モリッツ印映画作品オススメ攻撃を受けているのだが、勧められるまま見ていくうちにふと気がつくことがあった。なんというか、この人が絡んでいる映画って昔から結構ちゃんと「マルチ・エスニック」なキャスティング実現してるよなぁ...って。
「人種のるつぼ」であるアメリカの映画やドラマで非白人キャストの登場率が低いことが実はとってもヘンテコなことであるというのは、正直なところ「ワイルド・スピード」シリーズについて調べ始めるまで私はあんまり意識したことがなかった。
ジャスティン・リン監督がアジア系アメリカ人にカッコイイ役が回ってこないことに不満をもっていたり、ジョン・シングルトン監督やタイリース・ギブソンがショウビズで活動するアフリカ系アメリカ人の活躍の場を広げようと精力的に動いているというような記事を読んでいくうちに洗脳されてきたのか、最近は自分でも違和感を感じることができるようになってきたように思う。
しかし、ニール・モリッツが絡んだ作品を見ていると別に古いからって登場人物が白人だらけってこともないじゃんって感じで。
それともこのニール・モリッツが何か特殊なんだろうか?
そんなことを思いながらIMDbを眺めたりしていると「ワイルド・スピード」絡みで「あれ?」っと思うことが幾つかあった。
「もしかしてこれって実はこういうことだったの??」的な。
これまでも「ワイルド・スピード」が20年も続いた経緯や理由やヴィン・ディーゼルとポール・ウォーカーの関係に関していろいろな妄想じみた推測を試みてきた。でもまぁ、実のところ書きながら「でもそれって無理があるよな〜」と思うところだらけで、全然納得できてなくて。で、何かしら思いつくことがあれば調べていたりしているのだけれども。
ここ最近、「マルチ・エスニック」や「ニール・モリッツ」というキーワードから色々見直してみると、「無理があるよな〜」な点について、「これだったらいい感じに説明つくんじゃない?」という気づきが幾つかあった。
というわけで、これまで既に散々「ワイルド・スピード」シリーズや「ポール・ウォーカー」について妄想めいた推測を散々繰り広げてきたが、また懲りもせず試みてみようと思うわけである。
まぁ、ご存知の通り頭脳労働力がめっぽう弱い上に思い込みが激しいヤツなので、あとからまた「あほやな、私」とさんざん自己ツッコミすることになるとわかっている。わかっているが、もういいよ。気にしたところで私の洞察力やら思考力の精度があがるわけでもなし。
ついでに言っておけば私の関心ごとはハリウッドにおける人種差別の実態を解き明かすとかではなくて、やっぱりポール・ウォーカーという俳優さんのことだ。
だったら「I am Paul Walker」という兄さんのドキュメンタリーを見るのが一番手取り早いのかもしれないじゃねーかと思わないでもない。
というか、そう思ってアマプラで見つけた時、見ようとしたことはある。
でも、冒頭いきなり子供の頃の誕生日を祝うホームビデオの映像が流れて心が速攻折れた。無理だ。いくらなんでも生々しすぎる。
なんだか見てはいけないものを見たような気分になってやめてしまった。
出演作品もインタビュー記事もあさり尽くしてしまったら、もしかしたら見る勇気がでるかもしれないが、あのドキュメンタリーを兄さんの見納め作品としてもってきていいものか一抹の不安がある。まぁ、兄さんの未見作品はまだ数作品残っているのでおいおい考えることにする(←どうでもよい)。
・「ワイルド・スピード」が目指したもの
「ワイルド・スピード」シリーズは気楽に楽しめるポップコーン・ムービーで難しく考える必要はなにもない。むしろ難しく考えようものならその荒唐無稽も無稽なストーリー展開に頭が大混乱をきたしてしまうこと必至だ。
このとんでもないシリーズは20年間も続いてきているわけだが、最初から一貫して変わらないことがある。それは「人種のるつぼ」であるアメリカという国の映画にふさわしく、さまざまな人種のキャラクターを登場させていることだ。
人種・性別に関係なく協力したり敵対したり格闘したりしながら両陣営共に大量に車を撒き散らし、毎度周辺に甚大な被害をもたらしまくる。荒唐無稽という言葉でも追いつかないぐらいどうかしているこのシリーズ。
その人気の理由の一つにマルチ・エスニックなキャスティングということがよく挙げられている。
人種差別や性差別など昨今のアメリカやイギリスのTVドラマをみていると随分と解消されてきているような印象があるのだけれど、実際のところそう簡単ではないようだ。問題が難しすぎて表立って語られることがなくなったという傾向も見てとれなくはない。
とはいえ、「ワイルド・スピード」がスタートした20年前と比べれば少しずつ改善されてきているのだと思う。昨今のアメリカやイギリスのドラマや映画を見慣れた目で、その頃の映画やドラマをみるとふと違和感を感じることも多くなってきた。
作品がどうこうという以前にそこが気になっていまうのは映画やドラマをただ楽しみたい身としてはいささか厄介ではあるが、自分がこうしてマルチ・エスニックでないことに違和感が少しずつでも感じられるようになってきているのはいいことなのだと思う。
「ワイルド・スピード」シリーズは1作目から多様な人種からなるキャスティングを実現しているが、そのことについてアメリカのネット記事で目立って取り上げられるようになってくるのが、ざっと検索をかけて調べてみたところ6作目の「ワイルド・スピード Euro Mission (Furious 6)」が公開された2013年の春頃からだと思う。
それらの記事の中で興味深かったのがNYの🐭系のキャスティング・ディレクターへのインタビューで、その人によると、これまでどんなにいろんな人種をキャスティングしたいと望んで推してみても、最終的にスタジオ側やら何やらに阻まれてきて実現できなかった経緯があるので、業界にとって「ワイルド・スピード」シリーズの成功はとても大きいということだ。「普通の観客たちはまだ気がつかなくても、業界の人間は全員この意味をわかっている」と語っている。
7作目「ワイルド・スピード Sky Mission (Furious 7)」が公開されたのは2年後の2015年。この時も「このフランチャイズの成功は多様な人種のキャスティングが鍵」という内容の記事をいくつも見つけることができる。
どうやら2年ぐらいではハリウッドのキャスティング事情はあまり変わらなかったらしい。
その「違和感」に気がつけるようになるまでに時間がかかるというのもあるのだろう。どっぷり浸かってしまっているとなかなか気がつけない。そこに気がつけない相手に対してそれを直して欲しいといってもきいてもらうのは難しい。
当たり前のように思っていることが、元をたどれば実は非常に歪んだ状況で生まれた”当たり前”でそれが生まれた背景は忘れられて、その”当たり前”だけが根拠なく残り続けている例だっていくらでもある。
いずれにせよ「ワイルド・スピード」がはじまった20年前はマルチ・エスニックなキャスティングを実現するのは今よりも格段に難しかったはずだ。
にもかかわらず、1作目から変わらずマルチ・エスニックなキャスティングを実現し続けている。
これって、やっぱりすごいことなんじゃないかと思うし、そうするためには相当な戦いがあったのではないかと。
アメリカで2001年6月に公開された「ワイルド・スピード」の1作目はスタジオ側の予測を大きく上回って大ヒット。おかげで続編をつくることがすぐに決定したという。当時のはやりもあってスタジオ側はその時点ですでにトリロジーでいこうと考えていたらしい。
しかし、ヴィン・ディーゼルが2作目の出演を断ったあたりからシリーズの雲行きがあやしくなる。さらにヴィン・ディーゼルが3作目の出演も断ったこともあって尻窄み的に終息を迎え......るはずだった。
それがなぜ20年も続くフランチャイズに成長したのだろうか?
長くなったので続きはまた今度ー。