号泣。
最初から引き込まれ、いっぱい笑って、いっぱいハッとさせられて、そしてグッと泣かされた。 映画から受けた印象をこのまま記憶に保存しておきたいから、なにも書きたくない感じ。結局、ほんとうにいい映画(←自分にとって)をみると何を言う必要もなくなっちゃうんだなと。
主人公はクリントン・イーストウッドが演じるウォルト・コワルスキー。 毒舌というか口がめちゃくちゃ悪いのだけれど、性根はまっすぐな、めちゃくちゃ魅力的でいい人。
隣に住むベトナムから移住してきたモン族の家族に対して、最初は相手をよく知らないことから毛嫌いをしていたが、彼らのことを知るにつれて隣人として友として受け入れていく。
最初はウォルトのあからさまな差別発言にひやひやさせられるのだけど、ウォルトの育った時代を考えれば、そういうプロパガンダの社会で生まれ育ってきたのだから、脊髄反射で出てしまう感じなのだろう。 当のウォルトも移民系。友達もみんなそうで、彼らは日頃お互いのことを貶しあうような毒舌を交換することで円滑な関係を育んでいる。隣人のモン族の家族とも友好関係が進むにつれ、そんな冗談もお互い笑って言えるようになった。 うまく言えないし、なぜそう感じたのかもうまく説明はできないが、それでも彼らのコミュニケーション方法はさまざまな軋轢をのりこえ、共存するための大きなヒントであるような気がした。
その発言の裏にあるのがなんであるのか。 歩みよるにはお互い手探りであっても学びあわないといけない。 その言葉さえ口にしなければいいというものでもない。 意識を変える必要がある。 自覚がある場合はいい。 自覚のないそれを認識すること。 何気なく放ったことばが相手にどういう影響を及ぼすか、相手を尊敬し思いやる気持ちがあれば気が付けるし、直していける。その積み重ねによって共存は可能となると信じたい。
さらにこの映画では人と人の間に溝を生んだり傷つけあうよな関係をもたらす原因は国や文化の違いではないことが見えてくる。暴力は普通にくらしたい人間にとっては国や言語、文化、宗教の違いなど関係なく、忌むべきものだ。あえてステロタイプに描いたのかもしれないが、”暴力”に加担するものたちのやることは白人だろうが黒人だろうが黄色人だろうがまったくと言っていいくらいに一緒で無個性だ。
ウォルトがとった行動はとても昔ながらのアメリカ人らしいような気がした。
”自分や自分の家族の身は自分で守る”
それから戦時下で自分が奪った若い命への償い。
皆はウォルトが”暴力”で解決するのだと心配していた。 ウォルトはとても合理的な人でいつもどうすれば"useful"でいられるかということを考えて行動していた。 自分の死に衣装までつくったのは、施設にいれようとした家族の世話には金輪際なってたまるかというウォルトの意地なのか、それとも”自分の面倒は自分で見られる”というウォルトの行動規範の単なる一環だったのか。 人生の幕引きの仕方すら自らで決めた。 とんでもなくかっこよく。
書きながらウォルトのことを思っていたら、なんだか泣けてきた。
私の好み度: ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️/5
🍅: 81%