子供がまったく生まれなくなって18年が経過した2027年のお話。
世界中の秩序が崩壊し、かろうじて国として機能しているのがイギリス。主人公セオはエネルギー省に勤める官僚だが、別れた妻ジュリアンは“フィッシュ”という反政府グループのメンバーで、通行証を融通してほしいとセオに突然接触してくる。2027年、近未来を舞台としたSFだが画面からは奇妙なほどのリアリティを感じた。子供が生まれなくなった世界。未来の無さに絶望し自殺することも政府から許されている。そんな暗澹たる世界でセオはジュリアンからキーという少女の通行証を用立てて欲しいと頼まれる。ところがジュリアンが殺されてしまい、キーから妊娠であることを打ち明けられたセオはジュリアンの願い通りキーをヒューマン・プロジェクトという組織の元に送ることを決意する。
キーの妊娠は奇跡であり、未来への希望であるはずなのに皆が戦闘にあけくれ、この奇跡に気付こうともしない。その小さな奇跡であり、未来の希望である赤ん坊めがけて容赦なく銃弾は降り注ぎあちこちで爆発がおこる。赤ん坊を殺してしまうようなことがあれば、どんな信念も正義も正当な理由にはなりえない。未来がないなら権利や尊厳を守る戦いになんの意味があるのか。ただでさえ残り少ない時間を自らの手でどんどんと破滅へと追い込んでいく。
一方で、人類の未来を、微かな希望を守りたいという至極真っ当な判断をした人たちはどんどんと殺されていく。砲撃につぐ砲撃。爆発、瓦礫と化す建物、積み上がる死体。暴力につぐ暴力。根拠がなんであれ、この赤ん坊を守れなければ全てはただの愚行だ。憤りを感じた時、その愚行は今も世界のどこかで起こっていることなのだとはたと気がつかされる。この人類の最後の希望かもしれない母子に気づきもせずに戦闘を続ける人間たちが映画のなかで描かれているが、現実にはいまも戦闘に巻きこまれ死んでいく子供たちがいる。未来を殺す戦争は今現実に起こっている。子供が生まれなくなった世界ではないのだから子供が戦争に巻き込まれて死んでも一向に構わない。また産み増やせばいいのだという考えで争いを続けているのであれば、ただただおぞましい。
映画で扱っていることは近未来の話ではなく今この現実で起こっていることなのだと気付かされるのは子供のことだけではない。言葉や人種、宗教、所得が違うというだけで人が人として扱われない事態が起こっていることはニュースで毎日のように報じられている。この映画で描かれているのは架空の未来ではなく、世界のどこかで今現実に起こっていることだ。それを訴えたいがために、この映画はリアリティに徹底的にこだわったのかもしれない。収容所での様子、人の扱われ方、爆発テロに日常的におこる銃撃戦。特に終盤の戦闘シーンはもはや戦場カメラマンの目線だ。あたかもセオとともに逃げているカメラマンがいて、命がけで必死に報道しているのかというような悲痛な映像。空爆や銃撃戦の起こる町に住んでいれば、そしてその最中にいるということはこんな感じなのだろうなと震撼としてしまう。
セオの命もつき、海の上で小さなボートの中に残されたキーと赤ん坊は波間に揺れている。“ヒューマン・プロジェクト”の船は近づいてきているが、いつ小船がひっくり返ってキーと赤ん坊の命をさらうかもしれない危うい状況だ。人種、宗教、難民、格差、紛争の火種となる問題を解決する方法を見つける”ヒューマン・プロジェクト“の船が間に合わない限り、キーと赤ん坊にも、未来にも希望はない。
今の時代、その船はこちらに向かい始めているのだろうか、それとも...。
私の好み度: ⭐️⭐️⭐️⭐️⭐️/5
🍅: 92%